Edvard Munch エドヴァルド・ムンク 1

これもずいぶん前に見たEdvard Munch エドヴァルド・ムンク(Norwegian:1863 – 1944)の展覧会です。

This image has an empty alt attribute; its file name is munch-_starry-night-copy.jpg
Starry Night1893

Oslo から100km南にあるÅsgårdstrand という小さな港町で過ごした夏にホテルからの眺めを描いたものです。

This image has an empty alt attribute; its file name is munch-_the-storm-copy.jpg
The Storm 1893  

The Screamと同じ年に制作されたÅsgårdstrand のストームの様子を描いた作品です。暗くなる空の下でホテルの前の木が強風で曲がっている背景です。白いドレスの女性が両手で耳を塞ぎ、背後のグループから離れているのはMunchの孤独感が表されていると言われています。

This image has an empty alt attribute; its file name is munch-_moonlight-copy.jpg
Moonlight 1893

『窓に月が写っている夏の夜、顔に月の光のあった女性が一人で立っていて背後にはボーッと影が浮かび上がっている』と壁の解説にありました。

This image has an empty alt attribute; its file name is munch_despair-copy.jpg
Despair 1894

The Scream と同じようにOsloの近くを二人の友達と歩いている時に、少しメランコリーを感じ見上げた時に空が燃えるように赤く変わったという経験をもとに描かれています。

This image has an empty alt attribute; its file name is puberty_1.jpg
Puberty 1894(絵全体の写真を撮りませんでしたが)
This image has an empty alt attribute; its file name is puberty_2-copy.jpg
Pubertyの右中央

Madonna 1895–1897
ディテール:右下の部分

MadonnaはMunchのFrieze of Life シリーズの中の作品です。Madonna” Loving Woman”には五つのバージョンがあります。

Edvard Munch – an introduction

https://www.metmuseum.org/exhibitions/listings/2017/edvard-munch

Exhibition Objectsをクリックするとこの展覧会に展示されていた作品が一覧できます。

Edvard Munch エドヴァルド・ムンク 2

The Metropolitan Museum of Art,Edvard Munch: Between the Clock and the BedAt The Met Breuer NOVEMBER 15, 2017–FEBRUARY 4, 2018

The Sick Child 1896

The Sick Child 1896は11歳のBetzy Nielsenがモデルだそうです。Munchは絵の具を重ねては色を削るというテクニックを試み、リアリズムからインプレッショニズムへの移行を果たしています。

The Sick Child 1896の肘の部分

The Sick Child 1907(これも絵全体の写真をとりませんでしたが)

The Sick Child 1907の左下の部分

1885年から1927年の間に”The Sick Child”と題した6点のペインティングを描いていますがこの展覧会で展示されていたもう一点のThe Sick Child 1907は三番目の作品です。短いブラシストロークが重ねられたテクニックが精神的な不安を強調しています。

Munchはリトグラフ、ドライポイント、エッチングでも”The Sick Child”と題した作品を作っています。いずれも肺結核のため15歳で死んだ姉のJohanne Sophie (1862–1877) が病床に伏すところを描いたものです。その以前1868年には母親も肺結核で失っており、彼自身も病弱な子供だったそうです。母親の死後は医者であった父Christian Munch,と叔母の Karenに5人の子どもたちは育てられたのすが、姉のJohanne の死はMunchに大きな傷跡を残します。

また病弱で学校を休みがちだったMunchに父Christianは歴史や文学の他に幽霊の話やEdgar Allen Poeの話を聞かせて楽しませいましたが、その反面神経質で宗教心が極度に強く子供に接する態度は厳しかったようです。また父が医師であったにも関わらず生活は苦しかったそうです。

Munchは一度も結婚をしていませんが、自分の作品を『子供』と呼び、離したがらなかったそうです。1944年に80歳でこの世を去った時には、彼の家の鍵のかけられた二階の部屋に何千点ものペインティング、ドローイング、木版、エッチング、リトグラフなどが残されていました。

Self Portrait with Brushes 1904

この自画像はコレクターのMax Lindeの家(Lübeck, German )に滞在していた時に描かれたものだそうです。

ディテール

ディテール

Edvard Munch エドヴァルド・ムンク 3

The Metropolitan Museum of Art,Edvard Munch: Between the Clock and the BedAt The Met Breuer NOVEMBER 15, 2017–FEBRUARY 4, 2018

Red Virginia Creeper 1898–1900

題名の『Red Virginia Creeper』は中央の建物の壁に伝い上がっている植物の名前です。

ディテール:左中央

ディテール

Jealousy ca. 1907

蒼白なジェラスに満ちた顔の前方の男性はStanislaw Przybyszewski で後方のドアの向こうにいる女性は彼の妻だと言われています。

The Artist and his Model 1919–1921

MunchのスタジオにいるMunch自身と若いモデルのAnnie Fjeldbu。

The Dance of Life 1925

1899-1900に同じ題の作品を描いています。この作品は同じモチーフと色で違うテクニックで描かれたものです。満月のÅsgårdstrand の浜辺を舞台に白いドレスの無垢の若い女性、赤いドレスの誘惑的な女性、そしてダークなドレスのもう若くはない女性は三人ともTulla Larsenに似ているそうです。

初めの作品が描かれてた時期の背景:Tulla Larsenは上流階級の出身で二人はイタリア旅行などしますが、Larsenは結婚を望みましたが、Munchは彼女から逃げてベルリンへ移ります。

Self Portrait by the Window ca. 1940

Self Portrait by the Window ca. 1940

ディテール

Munch の最後の作品の一つ。日に照らされた部屋にはたくさんの過去の作品がかけてあり、時間の象徴の時計、病の象徴のベッドの間に年老いたMunch が立っていて影には薄っすらとクロスが見えます。

この作品を描き始めた1940年にMunch は1150点のペインティング、18000点の版画、7700点のドローイングと水彩画、13点の彫刻をOslo市へ遺贈しています。

Edvard Munch: The Life of an Artist

Amy Sherald

Hauser & Wirth;10 Sep – 26 Oct 2019

(この展覧会もかなり前に見たものです。)

2018年のMichelle Obamaの肖像画の発表で一躍有名になったAmy Sherald (b.1973)の展覧会です。

すごく広いスペースでの展示でした。

Sheraldは道でバッタリ出会った人の写真から制作を始める事が多いそうです。

ディテール

人体の表現にはグレーのトーンあるいはグレーに近いナチュラルな色で描くgrisaille:グリザイユ画法を使っているそうです。

ディテール

父親は歯科医で両親は彼女にも歯科医か医師になるように望んでいたようですが、アーティストの道を進み、Maryland Institute College of Art でmaster’s degree をとっています。またSheraldに健康上大きな問題が忍び寄り、30歳の時にトライアスロンに参加する前に行ったドクターから心不全の診断を受け、2012年39歳で心臓移植をしています。

https://www.washingtonpost.com/news/morning-mix/wp/2018/02/13/the-life-and-near-death-of-michelle-obama-portrait-artist-amy-sherald/

Hauser & Wirth:

Amy Sherald on painting “everyday people

Amy Sherald: In the Studio

Hilma af Klint: ヒルマ・アフ・クリント 1

Hilma af Klint: Paintings for the Future :ヒルマ・アフ・クリント

Guggenheim Museum, New York : October 12, 2018–April 23,2019

(Keeper 2にもHilma af Klint の作品が載せてありますので、合わせて見てください。)

一年以上前に見た展覧会ですが、まとめてみました。

Hilma af Klint (1862-1944)は1906年にすでに abstract imagery(抽象的な描写)をしていました。20世紀の抽象の先駆者と言われているWassily Kandinsky (1866–1944), Piet Mondrian (1872–1944) and Kazimir Malevich (1878–1935)より数年前の事でした。

Hilma af Klint は1862年にSwedenのStockholm で生まれました。1880年の妹Herminaの死から、彼女は急速に宗教とスピリチュアリズムに興味を持ち始めます。当時女性生徒の最初の世代の一人として1882年から87年にかけて Royal Academy of Fine Artsで学び、その後もナチュラルな技法でクラシックな風景画、肖像画などを描きその時代の成功したアーティストでした。実際にストックフォルム中心地のEdvard Munch(1863 – 1944)の作品を展示していたギャラリーの上の階にaf Klintのスタジオはあったそうです。

igurative work; Ketty 20.2 x 27.5 cm

af Klint はこの表向きの画業の他に密かに他の作品も制作していましたがその作品は1986年にThe Spiritual in Art: Abstract Painting,1890-1895(the Los Angeles County Museum of Art)で展示されるまで、ほどんど人の目に触れることがありませんでした。

Hilma af Klint は1944年ストリートカーの事故に遭い82歳の誕生日を迎えるほんの数日前に他界しましたが、晩年の生活は豊かではなかったようで、その時残っていたのは292kronor(約$32)だけだったそうです。

1000点の以上の作品と125冊のノートブックを甥に残して,自分の死後20年経つまで作品を公表しないようにと遺言しますが、1960代には日の目を見る事はなく、実際に彼女の作品が表に出たのはそれよりもずっと後でした。

カタログから ノートブック:Flower,Mosses, Liche (1919-20)

Hilma af Klint は1896年から他の四人の女性とDe Fem ( The Five という意味)というグループを作って、金曜日にメンバーの家で集まりseances(降霊術の会)をしました。(Amaliel, Amanda, Esther, Georg and Gregor と名乗るthe ”guide” あるいは ”High Masters”)とコミュニケーションをしたり、メッセージを受け取ったりしたと信じていました。af Klint がThe Fiveのその活動を文とオートマティックドローイングで記録をとったノートがたくさん残されています。

1904年にaf Klint はseanceでHigh Masterから”Painting for theTemple”のコミッションを言い渡され、”Painting for theTemple”のために1906年から1915年の間に193点の作品を作っています。

The Ten Largest, No.1 and No.2 Childhood (1907)

The Ten Largest No. 3  No.4, Youth (1907)

The Ten Largest No. 5  No. 6, Adulthood (1907)

Ten Largest No. 6, No. 7, Adulthood (1907)

The Ten largest(テンペラで紙の上に描かれています。大きさ:約320cmx235cm)は”Painting for theTemple”の中のシリーズです。子供から年老いていくまでの過程(childhood, youth, adulthood and old age)が表されていて、花、種子、ジオメトリック、細胞、文字、言葉を組み合わせて複雑なイメージが作り出されています。当時話題を呼んでいたバイオロジストのErnest Haeckel の生物のイメージのポスターの影響も見られるかもしれないそうです。

カタログから:The Ten Largest No.8、Adulthood (1907)

カタログから:The Ten Largest No.9  No.10 Old Age (1907)

Hilma af Klint: ヒルマ・アフ・クリント 2

Hilma af Klint: Paintings for the Future :ヒルマ・アフ・クリント

Guggenheim Museum, New York : October 12, 2018–April 23,2019

Primordial Chaos (1906-07)

Hilma af Klintは螺旋にかなり興味があったようで、繰り返し使われています。またシンボルに関しては彼女ののノートブックの記述にdevelopment of matter(W),out of the spirit(U) とあるように、Wは Matter、 U はSpiritを表しています。色に関してはブルーが女性でイエローが男性、グリーンがそれらの調和のとれた融合だそうです。

世紀末のヨーロッパではTheosophyなどスピリチュアリズムが流行り、レントゲンの発見、electromagnetic waveなどの科学的な発見によって、多くの人々が見えない現象に関心を持つという時代背景がありました。

1908に af Klint はRudolf Steiner会いますが、Steinerの彼女の作品に対する反応に落胆します。Steinerの意見はシンボリリズムを使っている事はいい、しかし降霊術からオートマティックに表現するのは注意した方がいいのでは。もっと内省的なプロセスに目を向けるのはどうかというものでした。1908年 から1912年の4年間は制作を休んでesoteric Christianity とSteinerのliterature on Rosicrucianismについて勉強します。そして1912年にまた作品を作り出した時はChristian symbols とジオメトリックの要素が強く見られ、その時点では”High Masters”とのコミュニケーションは続行していても、もはや”guide”によって手が動くのではなく、彼女自身のinterpretationsによって作品が作られていきました。

The Swan, No.9 (1915)

左から Altarpiece No.2, No.3 and No.1(1915)

Altarpiecesは”Painting for theTemple”の中の最後のシリーズです。スピリットがmaterial worldを通して降りてきて、そしてまた上向きに上がっていくAltarpiecesはそれ以前の作品の集大成でもありました。

カタログから:  Altarpieces No.1 (1915) 237.5 x179.5cm

カタログから:  Altarpieces No. (1915) 238 x179 cmAltarpieces No.3(1915) 237.5 x 178.5

Hilma af Klint: ヒルマ・アフ・クリント3

Guggenheim Museum, New York : October 12, 2018–April 23,2019

Violet Blossoms with Guidelines (1919) 50 x 26.8 cm

Series V (1920)

Series V No. 4 (1920) 39×28 cm

Hilma af Klintは1920年にスイスのDornachを訪れ、そこに滞在してanthroposophyについて学び、たくさんのRudolf Steinerのレクチャーに参加します。その影響でaf Klintはジオメトリック的な表現を捨て二年間の制作の中断の後60歳を超えた段階でスピリチュアルな要素をwatercolorで表現し始めます。

1922)

(1924)

(1931)

(1931)

Hilma af Klintが意味したTempleというのはどういうものだったのかはわかりませんが、“paintings for temple”は円形の建物に飾られ、訪問者はスピリチュアルの道に沿って螺旋状の経路を上方へ向かっていくと思い描いていたようです。

Hilma af Klint 1930−31年のノートブックから:plans for a temple

Frank Lloyd Wrightのグッゲンハイムの建築のスケッチは1943年、Hilma af Klintがこの世を去る1944年の一年前のものです。グッゲンハイム美術館の創始者の一人で初めのディレクターありアーティストだったドイツ人のHilla Rebay(1890 –  1967)のFrank Lloyd Wrightへのグッゲンハイム美術館の建築の構想の依頼の手紙にはスペースが”temple of the spirit”であるようにと書かれていたそうです。Rebay自身もTheosophistで、Jean ArpなどのTheosophistのアーティストやライターとの交流も多かったそうです。

(ちなみにSolomon Guggenheimの没後10年、 Frank Lloyd Wrightの没後六ヶ月の1959年10月にWrightが設計したグッゲンハイム美術館はオープンしましたが、Hilla Rebayはグッゲンハイム家との亀裂からオープニングには招待されず、亡くなるまで一度も足を踏み入れた事はなかったそうです。)

Hilma af Klint 

Hilma af Klint: ヒルマ・アフ・クリント 4

Hilma af Klint: Paintings for the Future :ヒルマ・アフ・クリント

Guggenheim Museum, New York : October 12, 2018–April 23,2019

グッゲンハイムでの展示を1時間ぐらいかけて全部案内してくれています。

Hilma af Klint Paintings for the Future at the GUGGENHEIM MUSEUM

参考にしたもの:

Hilma af Klint Painting for the Future カタログ

https://www.modernamuseet.se/stockholm/en/exhibitions/hilma-af-klint-2013/about-the-artist/

Daniel Birnbaum. The Work of Hilma af Klint. 2016

Daniel Birnbaum. The Work of Hilma af Klint. 2016

Hilma af KlintArtist, Researcher, MediumApril 4, 2020–February 21, 2021 

Moderna Museet Malmö で今開催されている展覧会からのインフォメーション:

https://www.youtube.com/user/ModernaMuseetMalmo

Hilma af Klint: ヒルマ・アフ・クリント 5

Hilma af Klint: Abstrakt pionjär | Introduktion

スエーデンの美術館:Moderna Museetのキューレター:Iris Müller-Westermann、2113年の展覧会について

すごくわかりやすい解説なので、所々飛ばしてありますが、英語のサブタイトルを大雑把に訳してみました。(もし意訳し過ぎがありましたら、お許しください。)

Hilma af Klintの作品が1900年代に作られた事にまず興味を持ちました。とてもラディカルで、抽象、そして大きなサイズですし、秘密がありそうで謎めいていて、その時代の作品としてはめずらしい色使いだったのです。ほとんど知られていなかったスエーデン人の女性アーティストによって作られたものでしたが、大胆に立ち向かっていた女性だと思いました。af Klintは彼女のすべてを投入していたのがわかります。彼女は驚くべき一貫性を持って成就し彼女の生きた時代にはまだ形作られていなかった世界をものにしていると思いました。

さらに驚いたことにこれらの大きなスケールの作品は抽象的美術の先駆者と言われているカンディンスキー、モンドリアン、マレービッチ、クプカ以前に作られていた事実です。Hilma af Klintは自分の作品を秘密にしていましたが、それとは対照的に彼らは展示して世の中に発表していたわけです。

今私たちはこうしてバラエティーに富んだ彼女の作品を見る事ができます。しかし彼女は当時の人々に自分の作品は理解してもらえないだろうと思っていたので自分自身の死後20年経ってから公表するように遺言を残していました。Hilma af Klint は100年前に将来を描いていたと言えるかもしれません。その将来というは今現在にあたるのですが。

af Klintの作品にはいろいろな意味合いがあります。彼女はムンクのように正統な美術教育を受けています。まずKonstfackというテクニカルスクールで学び、そこではKerstin Cardonから肖像画の指導を受けています。その後(1882−87)Academy of Fine Arts で五年間学びました。このように彼女は確固とした美術教育を受けていたのです。

私たちは今日af Klintの抽象画を見ることの方が多いのですが、しかしながら彼女はそこからスタートしたのではありません。当時、彼女は美しい風景画やナチュラルなスタイルの肖像画を描いていました。私は彼女は世界がどう見えてるかを探っていたのではないかと思います。彼女を囲んでいる世界を理解しようとしていたのではないでしょうか。彼女は必要以上には甘美な要素を追わず、徹底した観察を通して自分の創意で描いています。その例といえる1890年代の水彩のすばらしい植物画も展示されています。

1800年代の末期になると彼女の中に何かが起こってきます。彼女は私たちの目で見えるもの(materialの世界)を超えた世界にたいへん関心を持ち始めたのです。それより以前、若い時からaf Klint はseance(降霊術の会)に参加していたという事もあります。時代背景として、当時はスピリチュアリズムが大流行していました。USから来てヨーロッパ全土に山火事のように広がていたのです。

(Hilma af Klintのアーカイブからの1890年代のseanceの部屋)

また彼女が生きた時代を理解するには、一般的に科学への注目が高まっていた点があげられます。Wilhelm Röntgen がレントゲンを発見し、突然人々は今までただ表面を見て知っていた物の更にその内側が見えるようになったのです。

(Hilma af Klint のスタジオの近くのBrunkeberg SquareのTelephone tower)

その他に1800年後半にはHeinrich Hertzがelectromagnetic waveを発見しtelegraphyが発達します。当時の人々は自分の周りの空間が目に見えない電波に満たされているという概念を持ち始めたのではないでしょうか。私たちの世界が私たちの知覚でつかみ取れるもの以上であるという認識はその頃の人々にとって、とても大きな衝撃だったのです。Hilma af Klint と同世代の他のアーティストと共にカンディンスキー、マレービッチ、モンドリアン、などの抽象美術の先駆者たちもこの状況に高い関心を持っていました。彼らは皆私たちが知覚しているリアリティーより大きな世界とのコンタクトを望んでいたのです。

また当時の女性のアーティストの立場を理解するのも重要です。スエーデンでは1800年代の末期にaf Klint のように女性も美術学校で勉強する機会を与えられましたが、教育が終わった後は男性社会である美術の世界に快く迎えられる状況ではありませんでした。女性アーティストはすでにあるものを模倣することぐらいしかできないし、何も新しいものは作れないと男性アーティストは思い込んでいたのです。女性アーティストからクリエイティブな作品は期待されてはいなかった時代に、実際にHilma af Klintは遥かに予想を超えた1000点からなる作品群を作っていたのです。

お互いにサポートし合うことが可能な女性で作られた環境でaf Klintは制作しました。彼女は他の四人の女性と”the Five”というグループを作ります。

(展示:the Fiveによるオートマティックドローイング)

グループは金曜に集まってseancをしました。”意識のさらに上の層”とコンタクトをしたのです。Hilma af Klintはやがて霊媒の役割をするようになり、”意識のさらに上の層”からのメッセージを伝えたようです。そしてこの活動は”Painting for the Temple”へと繋がっていくことになります。

(the Fiveの祭壇:Hilma af Klintのアーカイブから)

193点の作品から成る”Painting for the Temple”は1906年から1915年の間に作られました。その中にはとても大きなサイズの作品が含まれています。一番大きな作品は高さ:3.25m、幅:2.40mです。従来からあるどうやって作品を作るかのルールを方法と形状の両方において、彼女はここですでに破っていたのです。Hilma af Klintが大胆に彼女のすべてを作品に賭けていたのがわかります。”Painting for the Temple”の制作中には”意識のさらに上の層”とのコンタクトがあり、それらが彼女をガイドしていたと思われますが、初期のガイダンスはかなり強く、後にだんだんとその度合いは弱くなっていったようです。

”Painting for the Temple”はたいへん興味をそそられる作品です。主題がいくつかあり、またいろいろな違った視点から観れるようになっていて、それぞれがシリーズになっていています。そしてその主題ごとのグループがまたサブグループに分かれるというサイエンスのシステムのような構成です。それぞれがどうのように繋がっているか探求していたようです。atomsを研究したシリーズのようにcosmic dimensionsとmicro dimensionsを行ったり来たり、小さなものと大きなものを両方見ています。彼女にとってmicrocosmとmacrocosm は同等のものだったのです。

今回の展覧会では彼女のartistiry が複雑であった点を提示できる企画にしました。私たちは今回Hilma af Klintの残していったすべての作品にアクセスでき、何十年間も開けられることのなかったいくつもの箱を開ける事ができました。その中には紙が丸められた一度も展示されたことのないパステルで描いたものなどもありました。Hilma af Klintと彼女の四人の仲間が残した125冊のノートブックの内容を調べて25000ページをデジタル化したりしましたが、これは大きなリサーチプロジェクトでもありました。

私たちは作品を写真に撮って記録し修復もしていますが、彼女が思慮深く注意を払いながら分析するアーティストであったことがよくわかります。Hilma af Klintは探求することが女性のアジェンダではなかった時代に自分自身のビジョンに基づいて勇敢に自分のすべてをかけて進んで行ったのでした。

私たちは男性と女性、昼と夜、暑いと寒いなど両極をなすものが存在し、それで世界が成り立っているという概念で知覚して世界を見ているのかもしれません。Hilma af Klint の作品はそんな私たちを表現しているように思います。Hilma af Klint と彼女の仲間はこれら一見両極に見える物や現象の背後はすべて交わっていて、全部お互いに調和していると考えました。そしてそれらを超えて全てのものが繋がって一つになった世界を私たちは見ることが出来ていないのではないでしょうか。彼女がイメージを通して伝えようとしていた真髄はそこにあるのかもしれません。

少し見ただけでは簡単な円や四角にが描かれたように見える作品がありますが、それらがどのように繋がっていて、その作品から次の作品にどのように発展して行くかを見ると、意味深いものが見えてくると思います。

1906年ぐらいから彼女は絵の中に文字を使い始めます。また文字に加えてシンボルも使われていますがそれを全部解読するには難しいものがあります。彼女はUは Spirit(精神)を表し、WはMatter (物質)を表すと言っています。また彼女の多くの作品は“matter developing from the spirit”をテーマとしていて、常に全ての生命は動いていているとしています。また進化をテーマにしたグループ、白と黒のスワンをテーマにしたグループもあります。

シンボルは道路標識のように”止まれ”とか”時速30km”とか直接な内容の指示はないと思うかもしれませんが、シンボルにはそこに示された不思議な意味合いがあるのです。それは他の世界への入り口とも言えます。誰でもが自分なりの方法でシンボルを読み取ってドアを開けてその中へ入っていけるのです。その人がどんな人なのか、人生のどの領域に差し掛かっているか、若いか年寄りか、どういう知識があるか、見る人によってそれぞれ違いがありますが、そこで何かガイダンスを受けることがあるかもしれません。ドアの開け方が人のよってそれぞれ違うというのもとても興味が尽きない点です。

彼女が霊媒で意識より高いところからメッセージを受け取れたことを不可解に思う人はいると思います。未踏の領域に彼女は入っていた確かですが、彼女は決して幼稚な態度ではなかったと言えます。それが何を意味するかを理解することに努め、正しく理解しているか、誤解はしていないか、自分だけの妄想という事はないだろうかなどと熟考し、疑いの湧いたものはその疑いさえも何ページにもわたってノートブックに書き込んでいます。

1915年に”painting for the temple “ の製作が終わった後、それがどういう道のりだったのかををもう一度振り返ろうと文章とイメージをもう一度探索し、” The parsifal series” という144点の小さなサイズのwatercolorの作品 を作りました。

何層もの暗い渦巻きの最後に白い光が見えているこのシリーズの初めの作品(The parsifal seriese, No.1、1916)は私にとって特に大事な作品であるし、またカタログの中でも中心をなすものです。私たちは暗いところにいて、知識を得ながら光へと向かっているのかもしれません。この作品は私たちがそれぞれの方法で進もうとしてる道程にも見えてきます。光とは大きな意味でいうと、全てのものが融合しあっていて身体的とか物質的な人間を超えた違うレベルの私たちの存在と言えるかもしれません。

af Klintのノートブックを調べてみて驚いた事ですが、1920年年代1930年代と彼女は数千ページにもわたって消したり書き直したり編集していて、またあるノートブックは廃棄しています。彼女は自分が書き残したものがより一層納得できるものになるように作り変えていたのです。この事だけでもすごく興味深いと思います。このとても心惹かれるaf Klintのartistyは私たちは自分自身の視点を持って大胆に行動できる存在であるという事を思い起こさせてくれます。

私たちは今グローバル化された世界に住んでいます。大陸間の距離は縮まり、短い時間で旅行ができてみんな繋がっています。どこかで環境に影響を与える災害があれば繋がっているので私たちにも関わってきます。みんな繋がっているのです。Hilma af Klint が描いた絵は今日の私たちに理解しやすいかもしれません。そして若い世代の人たちはもっとオープンであるでしょう。

Moderna Museet Malmö で今開催されている展覧会からのインフォメーション:

Hilma af KlintArtist, Researcher, MediumApril 4, 2020–February 21, 2021 

https://www.youtube.com/user/ModernaMuseetMalmo

The Keeper 2

the New Museum/July20- October 2 2016

 ( from Atarara New York art journal )

Korbinian Aigner (1885-1966)はドイツ人のカソリックの牧師でリンゴとナシの品種と収穫をドキュメントした絵はがきサイズを絵を900点以上も残しています。ナチスに抵抗したために1939年にはDachauの収容所へ送られ強制労働を課せられますがその間もリンゴの栽培をしていました。その間に種を蒔いてそれから新しい品種を作り出したりもしていたそうです。

1980年からニューヨークに住んでいるYuji Agematsuさん(b.1956)の作品.毎日シティーを散歩し、ストリートから拾ってきたタバコの吸い殻、ガム、箱や植物や布の切れ端など小さな屑を写真を撮ったり、ピンで留めたり、彼独特のシステムにオーガナイズするそうです。この作品はタバコのパッケージのセロファンの中にそれらが入っています。

スェーデン人のHilma af Klint (1862-1944)は子供の時に妹の死をきっかけとしてスピリチュアリズムに傾倒します.オートマティックドローイングとライティングでメッセージを送ってくる”High Masters”とコミュニケーションができると言っていたそうです。af Klintは千点以上の作品を残していますが、作品を理解してもらうには当時では困難だろうから没後20年間はプライベイトにキープしておいて世間からは隠しておくようにという遺言を残したそうです。そして1960年代に公開された時、モンドリアン、カンディンスキーと同時代に抽象画を描いていたaf Klinは抽象絵画のパイオニアという評価を受けるようになります。

右から二番目の作品のディテール

http://www.newmuseum.org/exhibitions/view/the-keeper